歴史紹介

倶利伽羅峠・木曾義仲・小矢部

富山・石川県境にある倶利伽羅峠。
この地は、800年ほど前の源平合戦の時代、木曾義仲の軍が、奇襲戦法「火牛の計」を用いて平維盛が率いる平家軍を撃ち破ったことで知られています。

現在、源平合戦が展開された「みち」である歴史国道は「倶利伽羅いにしえ街道」として手軽なハイキングコースとして付近の住民に親しまれています。また、毎年、小矢部市は石川県津幡町と合同で、歴史国道イベントを実施し、にぎわいづくりに力を入れています。

倶利伽羅峠の戦い

治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国(現在の長野県)で挙兵した木曾義仲は、翌治承5年(1181)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。寿永2年(1183)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。平家軍は越前国(現在の福井県)の燧ヶ城の戦い(ひうちがじょうのたたかい)で勝利し、義仲軍の先鋒は越中国(現在の富山県)へ後退を余儀なくされる。だが、越中へ進出した平家軍が般若野の戦いで義仲四天王の今井兼平に敗れてしまう。

平家軍は一旦後退し、能登国(現在の石川県)志雄山に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国(現在の石川県)と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして、平家軍の油断を誘い、ひそかに樋口兼光の一隊を平家軍の背後に回りこませた。

平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられ ていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々 に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。

この戦いに大勝した木曾義仲は京へ向けて進軍、寿永2年7月、ここに義仲は念願の入京を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

木曾義仲の再評価と観光資源への活用

倶利伽羅周辺には、源平の歴史をしのばせる歴史資源が数多くあることから、小矢部市では今後、エリアを一体的に整備し、単に「源平」だけではなく、義仲・巴・葵をキーワードにして地域の活性化を図っていきたいと計画しています。

特に、木曾義仲については、これまで逆賊や乱暴者のイメージで語られてきましたが、実際は、信濃の木曽の地で身を起こし、高い志で新しい国づくりを目指した英雄であったと再評価されつつあります。

こうした新しい木曾義仲と巴・葵を、本Webサイトをとおしてあらためて発掘し、光を当てることで、郷土の歴史教育や地域振興、さらに長野県・石川県のほか、木曾義仲ゆかりの地域と連携しながら広域観光へとつなげていきます。

時代を駆け抜けた武将たち

木曾義仲

巴御前

葵御前

中原兼遠

樋口次郎兼光

今井四郎兼平

覚明

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